2019年5月19日日曜日

SysML初級講座 第33講のアップのお知らせと今後の予定


SysML初級講座 第33講「視点«ViewPoint» とビュー«View» 」をアップしました。
リンク先は→こちら


SysML初級講座は、あと2講ほどで完了します。
また、現在準備中の 「OCSMP モデルユーザー 英語受験・対策コース」は、6月中に開講予定です。

そして、モデルユーザー以降のOCSMPモデルビルダー(ベーシック、インターミディエイト、アドバンスト)への対応ですが、モデルビルダー認定試験の出題傾向が、実際にモデリングを行なっている実務者向けの内容であり、受験対策を単に問題演習だけで行うには無理がある ー(加えて、意味もない)ー ため、モデルユーザー合格者、もしくは同等の知識をお持ちの方を対象に、SysMLのモデリング演習講座を開催する方向で検討中です。(モデリング・ツールとしては、無料ツールのエクリプスなどを検討中)

決まりましたら、このブログでもお知らせしたいと思います。

2019年3月28日木曜日

大塚美術館 探訪

スクロヴェーニ礼拝堂(環境展示)
先日、「鳴門のうず潮」で有名な徳島県鳴門市にある大塚美術館に行ってきました。
この美術館の特徴は展示作品がすべて陶板に焼き付けられたレプリカ(複製)である事です。
複製品と言っても色合いや凹凸感もすべて原寸大に精密に模写してあり、また左の写真のように、環境展示と言って、古代遺跡や礼拝堂などをそっくりそのまま立体展示されており、実際にその場に立つと臨場感が圧倒的です。

有名なレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」も実物大サイズで見ると、ど迫力です。


最後の晩餐
また、この美術館では、陶板を手でさわったり、写真をとったりすることもできます。

幻のゴッホのひまわり

ゴッホは日本人に非常に人気のある画家ですが、
彼の描いた「ひまわり」が戦前の日本に存在していました。(「芦屋のひまわり」)
スイスから日本の実業家が求めたものだそうですが、残念な事に大戦中の神戸大空襲(昭和20年5月11日)の猛火の中に焼滅しています。

この大塚美術館では、その「芦屋のひまわり」を陶板技術を使って復元しています。
復元されたゴッホの「ひまわり」
(芦屋のひまわり)


SysML初級講座 第31講をアップしました → リンク











2019年3月14日木曜日

10分の1の法則 その6 ジャパン アズ ナンバーワン

SysML初級講座 第30講「要求の関係 «verify» と «testCase»」あっぷしました。 → リンク先 


 輸入品のコストを上げる要因としては、1.市場のサービスに対する要求レベルの高さに加えて、2.日本法人の高コスト体質の問題がありました。
ここで言う高コストと言うのは、日本企業との比較ではなく、日本以外の国に配備されたIBMの現地法人、ー 例えばオーストラリアIBMなど ー、との比較です。


優れたコストパフォーマンスの80年代の日本 
 80年代の日本の製造業は非常にスリムで若々しく、テクニカル・バイタリティに溢れており、IBMとは比べ物にならないほどの高いコスト・パフォーマンスをあげているように筆者の目には映りました。

 一人当たりの人件費は、日米でさほど差がなかったのですが(*注)、コストを比較する上でまず目につくのが、英語⇔日本語の翻訳コストでした。

オーストラリアは英語が公用語ですので問題はありませんが、アジアの日本を除く非英語圏は、市場規模が小さく人員も限られており、現地語へ翻訳するとしてもパンフレットや基本的な概要書程度であり、翻訳に時間とお金をかける国は日本以外にはありませんでした。
当時の大型コンピュータ関係のマニュアルの量は膨大なものがあり、また当時、IBM固有のジャーゴンの混ざった技術文献の翻訳を外注に出すことが難しいこともあって、主なマニュアルの翻訳は社員がやっており、さらに、社員しか読まない、かなりの量の内部文書も日本語に翻訳されておりました。

これは、日本をのぞく海外の子会社の社員はマネジメント系、SE系を中心に英語と現地語の両方を話す二言語話者(バイリンガル)が雇われておりましたが、日本法人の場合、規模がそこそこ大きいこともあって、大半の人材の供給を新卒市場に依存しており、ほとんどの新入社員は英語ができない状態で入社していたと言う状況にあったからです。

さらに、もう一つ重要な要素として、80年代は、日本法人自体のオペレーションが米国型から日本型にシフトして行った事も上げる必要があります。

当時は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか「ノーと言える日本」と言った書物がベストセラーとなった事に象徴されるように、ことごとく日本型経営に学べ、と言う機運が強く、外資系子会社でありながら、社内の全てのやり方が急速に日本企業を見習ったものに変貌してゆきました。
最近は、中国で「ジャパン アズ ナンバーワン」がよく読まれていると言う話を聞くと、それはそれで非常に感慨深く感じます。 
なんでも、現在の中国の状況に80年代の日本を彷彿とさせる点が多いとか。
この結果、社内の運用効率が、日本企業より悪い事はもちろんとして、他のIBM現地子会社より相当に悪化した事は間違いありません。
米国IBM本体の持つ官僚主義的非効率性と、日本化にともなう非効率化が重ね合わさった結果、非常な高コスト体質となっていました。

例えば、当時、製品の開発コストは、日本法人が行なった場合、日本企業に比べ少なくとも3倍以上かかる、と言った状況でした。

(*注)エンジニアの名目的な賃金レベルは、80年代には日本は米国に追いついていました。 ただし、米国の方が基本的な生活費が安く、社会インフラの拡充度の差もあり、実質的な豊かさは追いついていたとは言えない状態でした。

2019年2月28日木曜日

10分の1の法則 その5

80年代(メインフレーム全盛期)の
大型コンピュータ
80年代の日本、国産の優秀なコンピュータがあるのに、なんでわざわざ高いIBM製を買うんだ?と言う疑問が沸くのは、ごもっともだと思います。
事実、国産のハードウェアに比べて、IBM製は速さ(演算速度)、機械としての品質(故障の少なさ)、そして価格性能比、どれを取っても負けていたと思います。
これは対国産だけでなく、他のアメリカ製と比較してもIBMより速い機械、安い機械はたくさんありました。

Why IBM?  なぜIBM製が売れたか?


IBM製コンピュータが売れた理由は、機械そのものではなく、その売り方、アプローチに原因がありました。
このアプローチは、コンピュータを売る前の時代、機械式の会計機を売っていた時代から始まっていました。
その頃から、IBMは機械を売っていたのではなく、使い方を売っていました。
事実、昔のIBMのコンピュータはレンタルのみであり、顧客はキャンセル料を払う事なくいつでも返却できて導入の失敗リスクを最小限に抑えることができ、またコンピュータ利用のノウハウをSEから得ることができました。(これらは、当時のユーザー企業の経営者がまさに欲しいものでした。機械化の成果が欲しいのであって、決して機械が欲しいわけではありません。)

そして、このためにIBMは多額の資金を自社のSE教育に継続的に割きます。
『Think - 教育に飽和点はない』という言葉は当時のIBMの経営者の言葉でしたが、この言葉通り、多くのアナリストがIBMの成功の鍵は機械そのものではなく、そのSEの優秀さにあったと論評しています。
筆者は、この教育への過信がのちのIBMの凋落に繋がっていると考えますが、その点については、そのうちに。
また、もう一つの特長は、そのソフトウェア戦略・アーキテクチャでした。
昔はオペレーティング・システムの開発というのは、大会社が社運をかけて行うほど大規模でリスキーなものでしたが、OS/360の成功は、IBMの勝利を決定的にしました。

こうしたわけで、当時のユーザー企業は、SEのもつアプリケーション・ノウハウやIBMソフトウェアを使いたくて仕方なく(?)IBM製コンピュータを買っておりました。







2019年2月26日火曜日

10分の1の法則 その4

SysML初級講座 第28. 要求の関係 «deriveReqt» 派生要求をアップしました。 → リンク

Jeep Wrangler


30年ほど前の大型コンピュータは、アジアや欧州の国々に比べ、日本は特別に高価格に設定されていたわけですが、このことについて、筆者は、当時、次の2点、ー すなわち (1.)市場のベンダーに対する高い要求レベルと(2.) 日本法人の非効率な高価格体質 ー が主な原因である、と考えていました。

1. 市場が要求する高いサービス・レベル


これは自動車などにも共通して見られる現象で、車の例で言うと、往々にして日本市場は他国に比べ、ディーラーに対する要求レベル、依存度が高く、顧客がやったほうが安くつく簡単な作業であってもディーラーに頼む傾向が強く、保守・修理もディーラー任せとなり、頼られた側も(自己防衛的な理由もあって)過剰保守・過剰修理になりやすく、結果的に高い買い物になる傾向にあります。
車のオーナーの技術不足、関心不足の為に、高い買い物をすると言う構図は、決して車だけの問題ではありません。

また、特定の国だけ値段が高い ー あるいはアップリフト率が高い ーという状態は、決して秘密でもなんでもなく、各国の価格表や見積書を見比べれば簡単にわかる事でした。
当時のIBMは、独禁法の関係もあり、極端な値引きをして会社の体力まかせに、ー つまり会社の規模を利用してー 力まかせに案件を強引に取って行くと言う手法はご法度であり、どこの国でも定価販売、もしくはそれに近い状態で商売していました。
従ってグローバルな外資系顧客(当時の流行りの表現で言えば、多国籍企業)の中には、並行輸入品を使っている向きも多かったと思います。
その最たる例が米軍であり、ご存知の方も多いと思いますが、米軍内では「クロネコヤマトの宅急便」並みの(?)宅配サービスを兵站本部(か参謀本部)がやっており、どこかで安く仕入れたり、鹵獲(ロカク)してきたりした物(?)を大量に日本に持ち込んで使っておりました。
その場合、保守サービスだけは日本法人がやっておりましたが、保守サービス部門は独立採算であり、そんなバッタもんでも喜んでサポートしておりました。
このような保守サービス政策(ポリシー)は、大口顧客の大半を占めるグローバル企業(多国籍企業)のニーズに合致し、また中古価格の維持にも役立っておりました。
このような状況にあっても、当時既に多国籍化していた日本企業の間でも並行輸入品の利用はさほど進まず、中には ー 非常に印象に残っている例ですが ー、日本で買って、わざわざ海外に運んで使うと言う例もあったほどの状況でした。

(続く)

    2019年2月16日土曜日

    10分の1の法則 その3

    ジープ・チェロキー 2ドア
    前回は、「30年前の大型コンピュータの価格には、SEサービスが上乗せされていた」、と書きましたが、このこと自体は当時、世界共通であって、日本の価格にだけ適用されていたわけではありません。

    特定の地域向けの商品は別ですが、商品の大部分は世界向けであって、それらの価格は米国での価格が基本になっており、大体次の式のように算出していました。

    現地価格 = 米国価格 × 為替レート × アップリフト率

    例えば、米国で100万ドルの機械をオーストラリアで売った場合、現地での価格は、為替レートを仮に本日のレート(1.40 米$/豪$)を使いアップリフトを120%とすると、

    100万 × 1.40  × 1.20 = 168万 豪ドルになります。

    実際には、為替レートは日々の時価を使うのではなく、会計年度ごとに一定のレートを固定して決めておき、製品価格だけではなく、子会社間や子会社ー親会社間のすべての取引に用いられるレートであり、例えば日本法人(子会社)の工場が製造した部品・製品をオーストラリア法人(子会社)へ輸出した場合のコスト振替もこのレートが用いられおり、大体のところ、実勢レートに準じた値を使っていたと思います。
    そして、曲者(クセモノ)はアップリフト率であり、これは海外取引に伴うコストやリスクを勘案した割増率であり、対象の国や対象の製品の性質によって異なるのですが、実際のところ、オーストラリアを含むアジア太平洋州や欧州(ヨーロッパ)のほとんどの国は120%程度だったのに対し、日本だけは160〜190%ぐらいあり特異的に高かった記憶があります。
    この日本のアップリフト率は、概ね大型機ほど高く、また時期によって異なっており、昔はもっと高かったと言われておりました。

    (続く)

    2019年2月9日土曜日

    10分の1の法則 その2

    ジープ・チェロキー
    先日、知り合いのオーストラリア人と日本人が盛んに内外価格差の話をしており、筆者も興味のある分野だったのでついつい会話に引き込まれてしまいました。

    彼らは主に通販サイトでの日豪間の価格差を盛んに議論していました。
    ぐたぐたを端折って、長い話を短くすると、「労働者一人当たりの賃金はオーストラリアの方が高いのに(つまり人件費などはオーストラリアの方が高くつくはずなのに)、なぜ、日本の方が価格が高いのか ?」と言う議論でした。
    もちろん、オーストラリア製はオーストラリアで買う方が安く、日本製は日本で買う方が安いはずなので(そうでもないケースも結構あるようですが)、そう言うものは除外して、どちらで買っても同じものが手に入ると言うような商品に話を限定すると - 自ずと家電などの工業製品が比較の中心になりますが - 、 ほぼ日本で買う方が割高だと言う話でした。

    筆者は、この話をしているうちに、今から30年ほど前、1980年代後半の頃の内外価格差の状況を思い出して来ました。
    当時は、日米貿易戦争が真っ盛りで、米国政府は盛んに米国製を買えと日本政府に迫り、日本側は米国製の日本国内での価格が割高だ(内外価格差)と応酬し合っていた状況でした。

    参考までに言うと、当時筆者は中古のジープ・チェロキー(米国製のSUV)に乗っていたのですが、このアメ車は日本国内では米国内の価格の倍近い値段で販売されておりました。
    と言うわけで、筆者は中古にしか手が出せなかったのですが、車の部品代も日本国内の正規品は非常に高く、ブレーキ・パッドなどの消耗品も、現在のように簡単に通販で手に入る時代ではなく、米国出張の際に向こうの車屋で買い求めて、空港で重量オーバーにならないかヒヤヒヤしながら - 車の部品は値段の割に結構重い - 手荷物と一緒に運び込んでいた状況でした。

    当時、筆者は米国のコンピュータ会社の通信製品のマーケティングの仕事に従事しており、社内では内外価格差に関する調査委員会のようなタスク・フォースが作られていました。
    と言っても、当時は製品マーケティング部門に製品価格の決定権は事実上なく、プライサー(Pricer)と呼ばれる財務畑の人間が決めておりました。
    その重要な要因の一つとして、当時、保守サービス料やソフトウェア使用料は既に別立てに課金されるようになっておりましたが、SEサービスは分離課金されておらず製品価格に上乗せの形になっていたことが挙げられます。(SEサービスが分離課金されるのは90年代以降です。)
    当時のコンピュータは今と違って、店頭に並べておけば顧客が勝手に選んでレジに持っていくと言うスタイルではなく、売るためにはSEの力が極めて重要でした。
    大型案件ほど、営業ではなくSEが売っていると言う状況になっていましたし、もちろん、販売後のSEサービスも極めて重要で、販売後に費やされたSEサービス・コストも製品価格に反映されてゆきます。
    そして、そのSEサービスのコストは年々増加してゆき、製品価格にしめる割合がどんどん増え続け、製品の開発・製造コストなどの直接コストは重要ではあるが、製品コスト全体の一部に過ぎないと言う状況になっていました。
    そう言うわけで、筆者などは開発コストなどの製品コストや競合他社の市場価格などのことをタスク・フォースのメンバーからもっぱらヒアリングされる立場でした。
    (続く)


    SysML初級講座 

    27. 要求の関係 «Satisfy»

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