2018年2月1日木曜日

纏向遺跡にて その1

箸墓 纏向遺跡
正月に初詣に奈良に行ったとき、帰り道に邪馬台国の有力候補として有名な纏向(まきむく)遺跡を見てきました。
筆者は学生時代から日本史が苦手で、古代史などにも全く関心が無かったのですが、実際に遺跡を見てみると俄然興味が湧いてきました。

邪馬台国がどこにあったかと言う問題は古くは江戸時代から争われて来たそうで、その論争の最大の原因は邪馬台国の場所が記述されていた「魏志倭人伝」の地理的表現、特に方位や距離が(意図的とも取れるほど)不正確であることにあると言われています。


考えてみると、古代どころか近世の江戸時代の地図などを見ても、距離や方位と言った情報は極めて不正確です。海上など見通しのきく範囲では方角はある程度信用できますが、見通しのきかない長距離の陸上となるとかなりいい加減となりますが、これは当時の軍事上あるいは生活上、正確な方位や距離が必要な場面がほとんどなかったからです。
それに反し、トポロジー情報は極めて正確です。
なんとか村の隣はなんとか町と言った隣接情報や、街道沿いに現れる地名の順番を間違えることはまずありませんが、これは、人間が主にトポロジー情報を使って移動しているからであって、方位や距離の重要度を遥かに凌駕します。
また、トポロジーに並んで正確に記憶される情報として、地域の特産品、風俗などの地誌情報があります。
例えば仮に魏志倭人伝で、「邪馬台国の特産品は”辛子明太子”である」と記述されていたとすると、皆さんの中にも、ある地域がピンと思い浮かぶ勘の鋭い方もいらっしゃるかと思います。
そして、さらに、「邪馬台国の主食は”豚骨ラーメン”である」と記されていたら、話は決定的になります。
何となれば、”豚骨ラーメン”を常食し、”辛子明太子”を好む土地というと、そうです、あの地域しかありえません。
ところが、さらに続けて、「邪馬台国では”豚骨ラーメン”を食べる時には必ず"柿の葉寿司"を合わせて食べる」となると頭の中は大パニックを起こしてしまいます。
かように人間は地誌的情報に対して極めて敏感であり、これは、おそらく人類が狩猟採集生活をしていた時代から骨身に叩き込まれ身につけて来た習性であったからでしょう。

北九州上陸直後に消息を断つ

さて、魏志倭人伝にはトポロジー情報も地誌的情報も記されていますが邪馬台国の所在地を特定するまでには至りませんでした。
地理的に、魏の支配下にあった朝鮮半島の帯方郡から対馬、壱岐を通って北九州に上陸するまでのルートは、ほぼ確実にたどることが出来ますが、上陸後幾許もせず情報が急激に曖昧模糊となって犯人(ホシ)の足取りがプッツリと途絶えてしまいます。
また、地誌的な情報も、邪馬台国の南方系的、海人族的風習を思わせる記述があるだけで、ホシ(犯人)を特定するにはあまりに不十分です。
そして長い間、もはや事件(ヤマ)はお宮入り(迷宮入り)かと思われたところに、新しい新事実が発見されました。
そして、ヤマ(事件)は動き出します。
🎵BGM指導: この節は「太陽にほえろ」のテーマを流しながら読むのが良いでしょう)

崩れ去ったアリバイ(不在証明)

新事実とは、纏向遺跡の考古学的発見です。
纏向遺跡は以前からその存在は知られていましたが、時代的には邪馬台国の時代、3世紀のものではなく、もっと後の時代のものだと見なされていました。
従って邪馬台国の時代に纏向はまだ無かった、と言う不在証明ーアリバイが成り立っていると考えられていました。
しかし、近年の発掘調査の結果、纏向の成立時代は従来の定説を遥かにさかのぼり、邪馬台国とほぼ同時代と見做されるようになり、ここに至って、纏向のアリバイー不在証明は完全に崩れ去ってしまいました。
そして、その遺跡の規模や内容から考えて、纏向は邪馬台国の最有力候補、ー もとい、最重要容疑者にされてしまい、世間から強い嫌疑の視線を浴びるようになってしまいました。本人もまだ自白(カンオチ)には至ってませんが、かなり弱っているのは確かです。

真実の訴え 纏向はシロ(無実)

しかしながら、筆者は、纏向あるいは大和地方は邪馬台国では無かったと考えます。この結論に至った論考は次回以降述べたいと思いますが、この結論に至った最大の要因は何と言っても遺跡を目撃したことによります。
もし、この目撃情報がなかったら、筆者も、纏向や大和地方に対し、強い疑惑の目を向けていたままかも知れないと考えると 恐ろしい気がします。


次回に続く

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