2017年10月18日水曜日

憲法と論理思考

選挙が近づいて来ているせいか、憲法問題がよく話題にのぼります。
筆者も、憲法には人並みの関心はあります。
と言っても、第9条の話をするつもりはありません。
日本軍 ー もしくは自衛隊(筆者から見れば単なる言葉遊び、問題のすり替えにすぎません)ーに関し、その存在に反対的な意見の主張に、現代の国際情勢に適用可能な現実的で包括的な政策、戦略がとてもあるように思えないのと同時に、その日本軍ーもしくは自衛隊ーの統治機構、特に政治家や軍上層部に、果たして見合うだけの(戦略眼を含めた)統治運用能力、メカニズムがあるのだろうか?という強い疑念、危惧を抱いています。(装備、科学技術力(潜在的開発能力を含めて)、予算から見れば世界有数の軍事力です。)
システム屋から見ると、憲法という法律の面白さは、その自己参照的な性質にあります。

自己参照(あるいは自己言及とも呼ばれます)とは、自分が自分を規定しているもので、例えば自己参照の逆説(パラドックス)の例を揚げると、
「この文は誤りである。」
と言う命題で、「この文」はこの命題自身を指しているものとします。
エーゲ海
そうすると、仮に文が間違っているとすると、結果的に文は正しいことを言っており、また、仮に文が正しいとすると、反対に文は誤りであると主張しており矛盾します。
おそらく、この手の自己参照の逆説で世界的に最も有名なのが「クレタ島の嘘つき住民」の話でしょう。
どう言う話が元のオリジナルであるか良く知りませんが(調べるのは面倒なので、読者諸兄姉にお任せします)、大体こんな話です。
あるギリシャの哲学者が、「クレタ島の住民は、すべて嘘つきである。」と言った。
ここで言う嘘つきとは、正しいことを言わない、発言はすべて偽であると言う意味です。
そして、この哲学者はクレタ島の住民だった、と言う話です。
皆さんも、クレタ島へ訪問の際は、住民に騙されないように十分にご注意ください(笑)。

さて、憲法の自己参照の話ですが、つまり、憲法、すなわち権力自体が権力そのものを規定しているところが自己参照的です。

古来、もともと法と言うのは絶対権力者が臣下にくだす命令であって、「王の言葉は法」と言う言葉に象徴されています。
今でも、立憲君主国では、形式的に、法律は君主(王や皇帝など)が ー 本人がその内容に納得しているのかどうかに関係なく ー 宣言する所が多いのは、その名残と言えるでしょう。
その状況では、君主も法 ー つまり自分の言葉 ー に縛られると言うのは、思いもよらないことでした。
もちろん、東洋にも「綸言汗の如し」と言う、君主の発言は元に戻せないという戒めの言葉があり、思想的には現代の法に近い考え方の萌芽はありましたが、「君子豹変す」と言う便利な言葉もあり、実際問題として、絶対権力者が法に縛られるようなことはありませんでした。
近代の憲法の発祥の地はイギリスだと言われています。
初期の頃は、統治者(王)と国民(の代理人である議会)の一種の契約的形態からスタートしましたが、時代が下るにつれ議会だけのコントロールでは不十分であり、統治者から法の解釈権を独立させるようになりました。
これによって、統治者の「法を変えたのではない、解釈を変えただけだ」と言う言い逃れの道も塞がれたことになります。

さて、現在の日本の憲法ですが、当然、権力を規定する法であり、権力者も従う事が強制される法です。(そう言う意味で、自己参照的です。)
ニュースで知りましたが、最近、日本政府は自衛隊の憲法解釈を変え、そして、解釈を変えたことを認めて、実行に移しました。
憲法には、変更の手続きが規定されており、国会の承認と国民の(投票による)承認が必要とされていますが、どちらも得てないそうです。
ついでに言うと、日本の憲法も一応、三権分立を謳っています。
この状況は、外から見ると、権力内の論理矛盾、自己矛盾を起こしているように見えます。
すみやかに、論理的な説明が必要であると言うは、多少とも論理学をかじった事がある者なら感じるでしょう。
と言うのも、内部矛盾を持った論理体系では、すべての命題が真である事が証明できる、ー つまり、ある命題が真であることも偽であることも同時に証明でき、例えば、日本軍ー自衛隊が合憲であることも違憲であることも同時に証明され、その論理体系自体の存在が無意味なものになってしまいます。
憲法が無意味となると、民間の自然法や慣習などに起因する部分はともかくとして、少なくとも現在の日本政府は権力の根拠を失ってしまいます。
現政権が日本を武力制圧したわけでも無いので、権限の根拠は憲法にあり、統治者も、また議員の特権的な地位も憲法に依存しています。
内閣や国会などは憲法が意味をなさなくなると、単に、おじさん、おばさんの社交の場に過ぎなくなってしまいます(実際、そうかも知れませんが)。

欧米では、ギリシャ哲学あるいはローマ法の伝統のせいか、法を論理体系的に考える人が多く、専門家ほどその傾向が強いようです。
日本では、法は論理体系というよりも、ことわざ集的な扱いで、便利な文言をあちこち持ってきて都合の良い解釈を行なっているように見えます。
このロジカル・シンキングの軽視、欠如は、近代日本のストラテジック・シンキング(戦略思考)の欠落の大きな原因の1つだと、筆者には映ります。

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