2015年11月16日月曜日

グローバル化と英語 その2

京都 永観堂
過日、紅葉を見に京都へ行ってきました。
紅葉は始まったばかりで、全山紅葉するにはまだ間がありますが、逆にそれほど混雑もしておらず暖かな日和で、のんびりと楽しめました。

空海の時代

空海は、みなさんご存知の通り、今から1200年ほど前、都が奈良から平安京へ移る時期に生きた僧侶で、高野山を開き真言密教の開祖として、今現在も日本に大きな影響を残しつつある人物です。
1200年もの長い間、日本人の精神界に影響を残すと言う偉業は、戦略論などと言う薄っぺらな俗論を遥かに超えて、決して筆者など凡夫の語るべき所ではありませんが、ここで取り上げた理由は、彼はこの時代の人としては驚くほど多弁であり、多くの情報が残されていてるからです。
現在のグローバル化の現象に似た事象を日本史上に探すとなると、人類が日本列島に渡って来た遠い記録のない太古を除けば、まず第一に遣隋使、遣唐使の時代を挙げるべきでしょう。
空海も若い頃遣唐使船に乗り、当時東アジアの一大国際センターであった唐の都、長安に渡っています。
そして、当時、遣唐大使など高級役人を除けば、空海たち若い学生達は、中国語に相当通暁していたことが窺わされますが、彼らはどこでどのようにして中国語を学んだのでしょうか?
空海がどのように学んだかは不明の部分が多いのですが、推察するに、彼は僧になる前に役人になるために当時の日本の首都、奈良にあった大学寮に入学しましたが、そこで漢籍の丸暗記型の勉学に飽き足らず、様々な分野の勉強をした際、中国語の会話も習得したようです。
大學寮には中国語の発音、唐音を教える音博士(おとはかせ、今でいう大学教授みたいなものか?)もおり、おそらく空海の出身階級である官人層の少なくとも一部には、中国語の読み書きだけではなく会話も可能であったコミュニティーがあったことが想像されます。
(一方、当時の支配階級である貴族層の中国語の教養は読み書きが中心であり、嵯峨天皇などの例外的存在を除きかなり怪しい所があります。)
 当時、唐は、日本を含む東アジア全体の文化の中心であり、また文治政治が行われていて、律令制を構成する唐の官僚層は、科挙の選抜試験を突破した詩歌に通じる教養人たちばかりでした。
(官僚たちの酒宴の席では、漢詩のやりとりが盛んに行われていました。)
 このような東アジアの状況下、日本においても学問、教養は中国語なしには考えられない状況でした。
これは、中国発祥の儒教だけではなく、インド発祥の仏教も例外ではなく、サンスクリット語で書かれた経典がすぐに漢訳され、それがわずか数年を隔てて、日本にも伝わって来ていました。
そして、ほとんどの経典は日本語訳されることなく、漢訳されたものがそのまま国内でも使われていました。
この経典の伝達速度の早さは、当時の海上交通の状況を考えると驚異的とも言えるものです。
当時、東シナ海を直接大陸へ渡る船の遭難率は極めて高く、例えば空海が入唐した時の遣唐使船は4隻から構成されたものでしたが、漂流しながらもなんとか大陸に渡りついたものは2隻で、 残りの2隻は行方知らずーおそらく、空海と同じ世代だった青年たちの青雲の夢、情熱を乗せたまま海中に没したのでしょうー、という状況でした。
留学期間も極めて長く、空海の場合は20年の予定で入唐しており、当時の平均的な寿命を考えると、中国に渡るということは、留学生の親にとっては事実上今生の別れを意味していました。
航路の危険や留学期間の長さから考えて、当時の留学生たちは悲壮な決死の覚悟で海を渡ったと想像されますが、空海が残した文章には微塵の暗さもなく、若々しいものばかりです。
空海自身、1200年前の人物とは思えないほど、現代的な印象を与えるのは、普遍的な問題に取り組んでいたからでしょう。
古代ギリシャの哲人が、現代人と対話可能であると言う印象と共通です。
まさに永遠の青春という表現がぴったりで、1200年の光陰を貫き、キラキラと青春の輝きを送り続けています。

次に続く

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