2013年10月28日月曜日

OCEB講座 第35回 日本型組織と海洋汚染問題 その6

海蔵寺






























上の写真は鎌倉のある禅寺の玄関から撮ったものです。
玄関から障子明かりの暗い部屋越しに奥の明るい庭を見せる構図が面白く、筆者のお気に入りの場所の1つです。



最近、東京オリンピックやリニア中央新幹線の話題をよく聞くようになって来ました。
恐らく、50年ほど前に行なわれた最初の東京オリンピックや東海道新幹線開業をモデルにした施策だと思いますので、改めて当時の状況を概観してみたいと思います。

昭和39年という年 (1964年)

昭和39年は、終戦の年である昭和20年(1945年)からわずか19年しか経っていません。
そして、この間に日本経済は目覚ましい発展を遂げました。
小説や舞台などでもたびたび取り上げられているように、第二次大戦前の日本は、貧困のために娘の売買が公然と行なわれる貧しい社会であり、また終戦時には国土は焦土と化し殆どすべての工業生産設備を失っていました。
戦後の最重要課題は当然経済復興でありましたが、当時の日本人の才能と努力、および経済問題に専念する事が可能となった幸運にも恵まれ、早くも昭和31年(1956年)には、有名な「もはや戦後ではない」と言う言葉に象徴されるように戦前の生産水準を取り戻し、昭和39年(1964年)には、当時世界最高速の鉄道、東海道新幹線を日本の自主技術で開業するまでに至りました。
わずか20年足らずでここまでの急回復を遂げた事は戦後の日本を語る上で最大のエポックであり、東京オリンピックが、単なるスポーツ・エンターテイメントを越えた象徴的な意義を持っていた事は、当時をよく知らない世代であっても十分想像がつきます。

また、当時の日本には国際競技大会を開催できるような設備が殆どなく、道路網も極めて劣悪でした。そして、オリンピック開催に向けた各種の建設工事が、文字通り死に物狂いのスピードで進められていました。

筆者は、東京オリンピックが開催された頃は既に生まれてはいましたが、幼児期だったので記憶は極めて曖昧です。 それでも、町の中心部からちょっと離れると、バス道でさえ多くが未舗装の砂利道、あるいは砂利さえ敷いていないどろんこ道だった記憶があります。
東名高速道路はまだ開通してなく、今では近場の行楽地となった伊豆の温泉でさえ、当時東京から自動車で行こうとすると12〜3時間、劣悪な道路を大揺れに揺られながら走ることを覚悟しなければなりませんでした。
オリンピックに伴う道路整備や高速道路などの交通網整備は、日本の経済活動をより促進させた事は間違いなく、また、それまで在来線で7時間かかっていた日本の2大都市圏である大阪−東京間が3時間あまりで結ばれた事も、ビジネスシーンに劇的な変化をもたらしました。
当時は、電話料金が極めて高く、かつ長距離通話が非常につながりにくい状況にあり、ビジネス・コミュニケーションには、人間の移動が必須でした。
オリンピックや新幹線が、社会インフラの整備に極めて役立った事は論を待ちません。

日本復興の象徴としてのオリンピック、劣悪な社会インフラの整備の象徴としての東海道新幹線の開通は、平成の今日まで、これらを凌ぐターニング・ポイントは存在せず、ある意味、昭和39年以降、時代が「今」になったと言えるでしょう。

昭和39年(1964年)の光と陰

昭和39年の明るい面を見て来ましたが、次に「暗」の面を見て行きましょう。
目覚ましい勢いで経済復興を遂げた陰で、様々な問題が引き起こされました。
当時交通戦争とまで言われた交通事故死者数の激増や残された犠牲者ー交通事故遺児の問題、都市圏での激烈な通勤ラッシュ、深刻な大気汚染、水質汚染等の公害問題 等々、様々な問題が経済発展の陰で発生して来ました。

その中から、本ブログでは日本型組織の問題、原発事故の近似性から公害問題をピックアップして議論したいと思います。

(続く)









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